宮澤教授の 趣味のページとリンク集

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 Bravo!! 聖響フルスロットル beethoven.gif
  ハイドン 交響曲第88番ト長調、モーツァルト 交響曲第40番ト短調、ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調
  (平成17年10月16日)

金 聖響・指揮、大阪センチュリー交響楽団

 このシリーズ3回目にして、初めて期待通りの「聖響・センチュリー」でした。まさに「金 聖響フルスロットル!」です。
 ハイドンの「V字」、第一楽章展開部における奈落に落ちていくような転調の恐ろしさ、第二楽章における木管の典雅なメロディとトゥッティの対照、フィナーレのベートーヴェンを先取りした推進力、何れもハイドンの魅力を余すところなく描き尽くし、センチュリー交響楽団の実力を遺憾なく発揮させた名演奏でした。それにしても、毎回繰り返しますが、センチュリーの木管奏者たちのなんと魅力と才能に溢れていることか!第二楽章など、まさにうっとりと聴き惚れてしまいました。
 モーツアルトの「40番」も完璧な名演で、何度も涙を拭いました。特に、どの楽章も反復を行う場合の二回目の方が、一回目より立派に聞こえたところが素晴らしく、速めのテンポで進められたメヌエット楽章も、中間部の後に冒頭テーマが戻って来たところで最初より僅かにテンポを速めたのが、この音楽の立体感を一層強調してたいそう効果的でした。そして、ベートーヴェンの「第7番」。普段「ベートーヴェンを聴きたい」という気分に殆どならない私でも、この演奏には素直に打たれ、音楽の素晴らしさをそのまま受け容れることが出来ました。勿論、今回はオーケストラのアンサンブルが完璧で、弦楽器群など、倍の人数のオーケストラより力強い音が出ていました。
 聖響さんが「何か特別のことをした」というように見えないところが、実は一番すごいと思います。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの音楽を、唯楽譜のままに演奏したように見えて、決して「手慣れた演奏」という結果に陥らず、他をもって代え難い感激と満足感を与えてくれました。これは、実は至難の業で、まさに「小さな奇跡」としてしかそのようなことは起こらないのに、だからこそ聴衆は、その日一回限りの奇跡に立ち会いたくて音楽会に足を運ぶ訳です。
 8月の末、同じザ・シンフォニーホールで読売日本交響楽団によるコンサートを聴きました。後半の曲目は、ブラームスの交響曲第1番でした。読売日本交響楽団は、メンバーがセンチュリーの2倍もいたでしょうか、コントラバスだけでも8名も並んでいました。アンサンブルも良く、弦楽器の音の厚みはドイツの名門オーケストラのようでした。演奏は技術的に完璧と言って良いものでしたが、隣の席で聴いていた家内は、失礼ながら途中で居眠りをしていました。楽譜を再現する点では完璧であっても、全く緊張感の無い、聴く者に訴える力に乏しい演奏でした。今更ブラームスの「第一番」など聴いて、何かを訴えられたいなどという時代ではないのかも知れません。しかしそれでも、聴衆はその日一回限りの「奇跡の音楽体験」を求めてコンサートに出掛けます。「第一番」の終楽章、ブラームスが山の上からクララ・シーマンに挨拶を贈っているようなホルンのコラールは、最後の長音で二番奏者が一番奏者に音を重ねます。二番奏者の音符にはクレッシェンドとディミニュエンドが書き込まれ、楽譜上二つの楽器が重ねられた意図は明らかです。でも、これを「如何にも二人で吹いている」ように演奏されると、聴く方は冷めてしまいます。あくまでも一つのフレーズとして、一繋がりの意味を持ったメロディとして聞こえて欲しいと感じます。
 余談が長くなりました。指揮者がオーケストラをコントロールするとはどういうことかを、聖響・センチュリーは理想的な形で示してくれました。今回は、コンサートマスターにセデルケニさんが戻ってきたことも大きかったように思います。弦楽五部の音の纏まりが素晴らしく、対位法が命の「40番」でも各パートの対照が見事でしたし、ベートーヴェンでは、特に第2楽章や終楽章など、ビオラ・チェロ・コントラバスが人数を超えた音の力を生んでいました。
 さあ、いよいよ次回はモーツァルトの「39番」と「エロイカ」です。期待して出掛けましょう!

 トンネルを抜けたか?
  ハイドン 交響曲第104番ニ長調 「ロンドン」、モーツァルト 交響曲第36番ハ長調 「リンツ」、ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調 「田園」
  (平成17年 6月 5日)

金 聖響・指揮、大阪センチュリー交響楽団

 下記で「どうした!?聖響」などと書いてしまいましたので、責任上(?)その後の演奏会の感想を書くべきですね。
 6月5日のコンサートでも、聖響・センチュリーのコンビはまだ「完調!」とは言えなかったと思います。相変わらずアンサンブルの乱れが続き、各楽器の音がバラバラな部分と、オーケストラ全体の音がピタリと一つになった部分とが入り交じっていました。この晩の曲目では、最初のハイドンが特に「凡庸」な曲に聞こえ(それはやっぱり、演奏者の責任だと思います)、第一バイオリンは独奏で弾いているよう、ティンパニは力んで強打するため、五月蠅いくらいになっていました。勿論、ハイドンのシンフォニーの中で、この曲だけが特に「ベートーヴェン風」で、纏めるのが難しいということもあるでしょうが、初めて聴いた人には、一体ハイドンのどこが良いのか、さっぱりわからなかったと思います。
 二曲目の「リンツ」は、私の大好きな曲の一つです。勿論、第39番以降の「三大交響曲」を除いた後期の交響曲としては、「メヌエット無し」の「プラハ」の方がずっと劇的で(あのめまぐるしい転調!)、内容的により深いものがありますが、明澄なこの第36番も、彼のピアノコンチェルトやオペラに繋がる世界を持ち、モーツァルトファンには決して数え落とすことの出来ない曲です。
 この晩の演奏は、残念ながら第一楽章ではまだアンサンブルの乱れが続いていましたが、第2楽章第一主題の反復から、本来のセンチュリーオーケストラらしい緻密な合奏が戻ってきました。メヌエット楽章のトリオ部分など、また音がバラバラになりそうなところもありましたが、終楽章は力演で、聴衆は心からの拍手を贈りました。今回のシリーズで初めて、聖響さんが三度カーテンコールを受け(そういう点、ザ・シンフォニーホールの聴衆は本当に評価が明快です)、指揮台に上がって深々と礼をされましたが、あのときバルコニー席から必死で拍手を先導していた一人が、この私です。
 休み時間に、家内の隣の席の老夫婦が、「オーケストラの音がきつく聞こえる時と、柔らかくまとまる時がある。あれは何故なのかなぁ。やっぱり指揮者のせいかなぁ」と話していたのが印象的でした。アンサンブルが揃った時には音の重心が低くなり、ステージの真ん中から一塊の音楽が聞こえてくるのに対し、アンサンブルが乱れたところでは、それぞれの楽器の音がバラバラに耳に入ってきて、特にバイオリンは「きつい」印象になります。確かな耳を持った聴衆が集まるこのホールならではの会話ですね。因みに、同じオーケストラの京都コンサートホールでの初演奏を、私たち夫婦はわざわざ京都まで出掛けて聴きましたが(「追っかけ」ですね)、その時は本当に完璧なアンサンブルで、終演後周囲の多くの人たちが、「本当に上手だねぇ」と感心しているのを、我がことのように嬉しく思ったものです。
 その点、最後の「田園」は、「聴いて良かった!」と思える演奏でした。ベートーヴェン嫌いの私たち夫婦ですが(余所でも書きましたが、モーツァルト好きの立場から言うと、ベートーヴェンの音楽は本当に単調で、「才能ないなぁ」と思ってしまいます)、家内は「田園」だけは好きで、私は「エロイカ」が最高傑作だと思っています。この晩の「田園」、聖響さんが目指す「記憶に残る演奏」になっていました。特に第二楽章以降は感動的で、久し振りに実演を聴いて涙で鼻が詰まりました。家内も感極まった様子で、その後帰宅する自動車の中でも、ずっと二人で終楽章のメロディを口ずさんでいました。
 一回に3曲のシンフォニーは大変であるとは思いますが、この調子で秋には、「流石聖響!」と言える演奏を聴かせて貰いたいと思います。

 どうした!?聖響
  ハイドン 交響曲第94番ト長調、モーツァルト 交響曲第41番 ハ長調、ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調
  (平成17年 4月17日)

金 聖響・指揮、大阪センチュリー交響楽団

 下記で絶賛した「ウィーン幻想派」のシリーズから丁度1年、金 聖響さんと大阪センチュリー交響楽団のコンビによる、「ウィーン古典派」のシリーズが開幕しました。会場のザ・シンフォニーホールは超満員で、一階席の通路には補助椅子が置かれ、立ち見のお客さんまでいる程でした。このコンビの人気の高まりが伺えます。
 さて、今年の「ウィーン古典派」は、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンのシンフォニーを毎回それぞれ一曲ずつ演奏するもので、聞き慣れた名曲に聖響・センチュリーのコンビがどのようなアプローチをするのか、楽しみにして4回分の券を予約しました。第一回の4月17日は、ハイドンの「驚愕」、モーツァルトの「ジュピター」、そしてベートーヴェンの「運命」で仕上げるという、まさに「定番の名曲」プログラムです。但し、この3曲を並べたのは流石に聖響さんで、3曲には共通して、所謂「運命動機」が主要な構築モチーフとして使われています。
 この日の演奏、多分聖響さんは体調が悪かったのではないでしょうか?「驚愕」の第一楽章こそ、まるでブルーノ・ワルターのLPを思わせるような弦の柔らかな響きで始まって、うっとりとさせられましたが、既にこの楽章から、普段のセンチュリーでは決してあり得ないようなアンサンブルの乱れが生じていました。この曲の第2楽章まではかなり順調に進んだ演奏でしたが、風邪気味の聴衆が多く、咳払いの音がかなりうるさかったのが、体調の悪かっただろう聖響さんの緊張の糸を切らせてしまったのかも知れません。モーツァルトは、勿論水準以上の演奏ではありましたが、どうしてもオーケストラの音がバラバラで、金管やティンパニが強奏している割には、聴く者に訴える力が生じていませんでした。やっと、第3楽章でアンサンブルがぴたりと決まり、「これなら『運命』は何とかなる」と安心したものです(同じような経験は、実はウィーン弦楽四重奏団のコンサートでもしています。数年前の演奏会で、何故か4人の奏者の音が一つにならず、最終曲の最後の楽章の、殆ど終わりに近いところでやっとアンサンブルがぴたりと決まって、その瞬間にチェロ奏者がニヤリと大きな笑みを浮かべたのを、昨日のことのように思い出します)。「運命」は、速いテンポの中で全てを表現し尽くそうとした渾身の演奏で、勿論十分に満足できる出来でした。第二楽章では涙が浮かんだほどです。
 唯、「ジュピター」の後も「運命」の後も、聖響さんは聴取の拍手に第一ヴァイオリンの後ろに隠れるようにして応え、舞台の袖から出て来るときも、少しふらつくような様子でした。やはり体調が悪かったのでしょう。この日の演奏における、センチュリー交響楽団には珍しいアンサンブルの乱れは、指揮者の体調によるものだと考えて、残りの3回に期待しましょう。

 Viva! 聖響
  ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調 「ロマンティック」
  (平成16年 4月17日)

金 聖響・指揮、大阪センチュリー交響楽団

 久し振りに実演におけるブルックナーの醍醐味に触れました。大町陽一郎さんとの共演による交響曲第8番の演奏が素晴らしかった大阪センチュリー交響楽団( 但し、上記「第8番」は大阪シンフォニカーとの合同演奏)ですが、矢張りこのオーケストラの実力は群を抜いています。ブルックナーの演奏に金管の音程の正確さと力強さが不可欠なことは言うまでもありませんが、私に言わせれば木管の音に儚さ・切なさがどれだけ出るかも同じくらい重要です。センチュリー交響楽団の木管奏者の表現力の豊かさは、既にモーツァルトの「魔笛」の項でも触れた通りです。勿論、主席ホルン奏者のドンナ・ドルソンさんの実力も以前から折り紙付きで、そうでなければブルックナーを安心して聞くことは出来ません。
 第4番は、ブルックナーのシンフォニーとして纏めるのが難しい曲であると思います。外面的な演奏効果は派手ですが、ブルックナーらしい儚さ・寂しさがやや少なく、(事前に周到な準備をした上で)同じモチーフを反復しながら徐々に高みへと導くように展開して行く、彼特有の持続力にも欠ける気味があります。しかし、この日の演奏では各楽章のそこかしこにブルックナーの魅力が的確に表現され、特に終楽章では、大宇宙の鳴動と小鳥の囀りとが同じ重みを持つという彼の音楽の本質が、完全に表現され尽くしていました。
 主席コンサートマスターのセデルケニさんは普段よりも大きな身振りで熱演していましたし、ピツィカートの高貴な音も、ビオラやチェロの表現力も、まさにブルックナーの音楽そのものでした。終演後の奥田一夫先生(コントラバス)の満足そうなお顔も忘れられません。
 それにしても、センチュリー交響楽団は金聖響さんを専任指揮者に迎えて大正解だったと思いますし、金さんもセンチュリー交響楽団との相性が最高です。この日の前半のモーツァルト(クラリネット協奏曲イ長調)も、第1楽章の出だしを聞いただけで、その柔らかい音色にうっとりとしてしまいました。第2楽章以降に、「彼岸の音楽」のような、金色に輝く秋の野を一人で歩いて行くような孤独感がもっと出ていれば、ますます言うことはなかったと思いますが(これは、むしろ独奏者への注文ですね)、モーツアルトのクラリネット協奏曲とブルックナーの交響曲第4番を組み合わせたと言う時点で、金さんがこれら二曲の本質を鋭く捉えていたことは明白です。
 今後、このオーケストラの編成でも第7番くらいまでは十分にカバー出来ると思いますし、第2番、第5番あたりの素晴らしい演奏を聴かせて貰えるのではないかと、大いに期待しています。

 モーツァルトが解ると言うこと
  モーツァルト: ピアノ協奏曲第21番ハ長調、K. 467
  バッハ: ピアノ協奏曲第3番ニ長調、BWV 1054
  モーツァルト: 交響曲第41番ハ長調、K.551
  (平成14年 5月10日)

マレイ・ペライア ピアノ・指揮、ジ・アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(セントマーティン・アカデミー室内管弦楽団)

 マレイ・ペライアは、私と家内が愛して已まないピアニストです。そもそも、私と家内にとって、「ピアノ演奏を聴く」と言うことは、殆ど「マレイ・ペライアを聴く」と言うことと同義です。モーツァルトについては長年に亘って、また最近ではバッハについても、マレイ・ペライアの演奏するCDが私と家内にとって音楽解釈の基本であり、演奏評価の(最も厳しい)基準であり続けています。
 モーツァルトの演奏は難しいものです。「モーツァルトでは一小節毎に音の表情を変えなければいけない」と言ったのは、確かフランスの名指揮者ピエール・モントゥーだったでしょうか(例によって、若い頃読んだ吉田秀和氏の文章からの、うろ覚えに基づく孫引きなので、原文が手元にない現在は出典を確認出来ません。ひょっとすると、クレメンス・クラウスの言葉であったかも知れません)。このことを最も高度に、かつ的確に実践しているのはマレイ・ペライアであり、「極めて高度に制御されたタッチの変化に基づくピアノの音色の多彩な表現力」という点で、ペライアと比較になるピアニストは居ません。
 このことを誰にでも解る例で説明しようとすれば、昔NHKが放送した「モーツアルト・オン・ツアー(Mozart on tour)」の「パリ」編における内田光子の演奏(ピアノ協奏曲第9番変ホ長調 K. 271 「ジュノーム」)と、ペライアがヨーロッパ室内管弦楽団を弾き振りして録音したピアノ協奏曲第21番・27番の、リハーサル実録LD(ペライア本人とサー・デニス・フォアマンによる、モーツァルト理解の手引きとも言うべき解説付き)とを比較するのが早道です。念のため断りますが、内田光子は優れたモーツァルト弾きであり、私は彼女とジェフリー・テイトによるピアノ協奏曲の全曲録音も愛聴しています。しかし、ことピアノの音色の変化による表現力という点では、ペライアと内田光子の間に天と地ほどの開きがあるのです。
 上記のテレビ番組用実演録画でピアノを弾く内田は、顔を傾け、瞼を閉じ、あるいは目を半開きにして眉根を寄せ、不自然なくらいに顔の表情を変化させます。モーツァルトに限らず、彼女の演奏する姿を映像で見るといつも顔の表情が大袈裟なくらい変化しますから、これは音楽に没入した時の彼女の癖なのだろうとは思います。それはそれで構わないのですが、モーツァルトを弾くとき、彼女のピアノの音色は顔の表情程には変化しません。その分、顔の表情や身のくねらせ方が大袈裟に感じられて、ピアノのタッチで表現し切れない部分を顔の表情で補って(誤魔化して)いるように見えてしまいます。これに対してペライアを見て(聞いて)下さい!演奏中の彼の顔は、殆ど表情一つ変えません。常に意志的な顔つきで、オーケストラを見据えたまま演奏を続けます。それで居ながら、彼のピアノの音色が一小節毎に、いや殆ど一音毎に、何と多彩に変化して音楽に表情付けを行うことでしょう!
 第21番のコンチェルト、第1楽章展開部における第2主題発展形の取り扱いについては、フォアマン氏の質問に答えてペライア自身が彼の解釈の秘密を明らかにしていますが、悲しみに満ちた弦や木管との掛け合いから、目まぐるしいばかりの転調を繰り返す再現部直前の劇的部分まで、ピアノ自体の音色を信じられないほど大きく変えて行く彼の表現力は、申し訳ありませんが内田光子とは比較になりません。モーツァルトの最大の魅力であるピアノと管楽器の対話においても、一つのフレーズがトランペット・木管重奏・フルート・オーボエと受け継がれて行く際の音色の変化と全く同じだけの音色の違いを、ペライアは一台のピアノで、タッチの違いのみによって弾き分けることが出来ます!
 来日したペライアがザ・シンフォニーホールで展開した演奏こそは、まさに彼の音楽解釈の深さと表現力の緻密さを聴衆に満喫させるものでした。モーツァルトのピアノ協奏曲第21番は、第1楽章が聞き慣れたCDよりずっと速いテンポで始まり、些かびっくりしました(第1ヴァイオリンのトップ奏者もびっくりしたらしく、途中でコンサートマスターと顔を見合わせていました)。しかし、速いテンポの中で、ペライアのピアノはモーツァルトの楽譜から読み取れる全ての音楽的内容を表現し尽くし、再現部ではCD録音の時点よりも更に多くの内容を読み取って、反復する短い動機の取り扱いで聞く者をはっとさせました。第2楽章以降は普通のテンポに戻り、愉悦感とはかなさ、涙と微笑みがめまぐるしいほどに交錯したモーツァルトの世界が、驚くべき緻密さで展開されました。この日のペライアの演奏を、これまで実演で聴いてきたいくつかのモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏と比較すれば、辛うじて「モーツァルトを聴いた」と満足できたのは、いずみホールにおけるラドゥ・ルプーの演奏(第17番ト長調 K. 453、第27番変ロ長調 K. 595、イギリス室内管弦楽団と共演、2001年10月23日)と、フェスティバルホールにおけるアリシア・デ・ラローチャの演奏(第20番ニ短調 K. 466、テオドール・グシュルバウアー指揮、大阪フィルとの共演、1997年6月5日)のみであり、そのルプーですら、ペライアに較べるとお湯で割ったコンソメスープと山盛りの具が入ったミネストローネほども、内容の充実度に差があったのです。
 休息後にペライアは、最近数年間研究を続けてきたバッハのピアノ協奏曲第3番を取り上げましたが、これもまた驚くべき表現力に満ちた演奏でした。メロディーと言うより、殆ど分散和音に過ぎないようなピアノのフレーズが、ペライアの手によって生命を吹き込まれます。そこに表現されるのはバッハの語る人生の無常であり、生命の儚さです。ペライアはバッハのピアノ協奏曲を全曲CDに録音していますが、残念ながらこれらの曲に限っては、彼のピアノ表現はCDに入り切っていません。実演に聞く彼のバッハの微妙な音色変化を、録音は十分に捕らえていないようです(実は、モーツァルトのピアノ協奏曲でも、ペライアのCDの音質は必ずしも良くはありません。若い頃のイギリス室内管弦楽団との演奏は大半がアナログ録音で、テープのヒスノイズが目立ちますし、ダイナミックレンジも狭いのです。ヨーロッパ室内管弦楽団との再録音による第21番と第27番のコンチェルトは、ディジタル録音でヒスノイズは無いのですが、録画も同時に行ってるせいか、超広帯域の再生装置で聞くと収録機器のハムノイズが入っています!)。昔、宮沢明子(彼女こそ日本で最高のピアニストです)の弾くバッハやラモーに、演奏者の人間的弱さも女性的弱さも伴うことなく表現されていた「人生の儚さ」が、ペライアの手によって、聞き慣れたバッハの鍵盤協奏曲に再現されていました。
 ペライアとセント・マーチン・アカデミーが最後に演奏したのはモーツァルトの交響曲第41番ハ長調「ジュピター」で、何とあのペライアが長めのタクトを持って舞台に登場したのにはびっくりしました。と言っても、指揮台に上がるのではなく、オーケストラと同じ高さのステージ上に立ったのが如何にもペライアらしく、彼の音楽の在り方を雄弁に物語っていました。
 演奏は、これまでCDや実演で聴いたどの「ジュピター」よりも優れていました。ブルーノ・ワルターのレコード以来、久しぶりでこの曲の演奏に知的興味を喚起され、新しい意味付けを耳にしたのです。そもそも、この曲の第1楽章が第1主題の冒頭動機を展開することで構成されていることを、これほど明快に教えられたのは初めてでした(極めて短い動機の組み上げだけでソナタ形式の大曲を全て構成するのは、何もベートーヴェンの専売特許ではありません。そのような構成力の代表とされるベートーヴェンの第5交響曲と全く同じ「運命」動機を使って、モーツァルトは遙か以前に、ベートーヴェンよりもずっと優美なピアノ協奏曲第25番ハ長調 K. 503を完成させています。モーツァルトの音楽の緻密さに較べると、ベートーヴェンの音楽はしつこいくらいに反復が多く、主題は発展して行きません。聴いていて、いつも「才能無いなぁ」と思ってしまいます)。ペライアが指揮者として木管楽器の扱いに特に優れていることは、彼の弾き振りしたピアノ協奏曲を聴けば明らかですが、この晩の「ジュピター」でも、木管楽器が普段は聞き過ごすような意味深いフレーズを活き活きと吹き鳴らしていました。そして対位法の技術を駆使した終楽章も、ペライアの指揮の下、全てのフレーズの絡み合いが絶妙なバランスで表現され尽くしたのです。
 ここまで来て、ペライアが何故モーツァルトのピアノ協奏曲を最初に演奏し、次にバッハを、そして最後に「ジュピター」を演奏したかが明白となりました。この順序は、絶対にこの通りでなくてはいけないのです。バッハの鍵盤協奏曲はモーツァルトのそれと同じくらいピアノの表現力を要求すること、晩年のモーツァルトは、バッハと同じくらい対位法を自家薬籠中のものとしていたこと、「ジュピター」でモーツァルトの到達した境地は大バッハのそれに近かったこと、この日の演奏会で聴衆はそれを明確に理解できました。

 それにしても、これほど密度が高く、これほど栄養満点で、しかも恐ろしいばかりに高度な表現力が駆使された演奏会のチケットが、最高のA席でもたった9,000円で、この数週間後に行われるアシュケナージごときの協奏曲コンサートのチケットが、それより高い12,000円というのは一体どうなっているのでしょう(ブーニンの協奏曲コンサートが15,000円などというのは、ここではまともに相手にもしないことにします)。真贋を見分けられる人間は、世の中にそれほど多くはないと言うことでしょうか。

 逆説的名演
  マーラー 交響曲第1番ニ長調 「巨人」 (平成13年11月11日)

エリアフ・インバル指揮 ベルリン交響楽団

 インバルの名前を初めて目にしたのは大学生の頃だったでしょうか。マーラーとブルックナーを得意とする指揮者という印象で、それはレコード会社などの売り込みがそのような方針で行われていたためだと思います。当時の私はLPレコードでクナッパーツブッシュやシューリヒトのブルックナーを繰り返し聞いていましたし、マーラーはその頃から肌に合わないと感じていましたから、敢えてインバルのレコードを買うこともありませんでした。アメリカから帰国後は次々と子供が生まれ、ずっとアパート形式の宿舎住まいでしたから、CD全盛時代になってからも、マーラーやブルックナーを自宅で頻繁に聞く機会はありませんでした。また、大阪に来てからはコンサートホールで実演を聞く機会が増え、以前のように同じ曲のCDを次々と集めることも少なくなりました(モーツァルトのピアノ協奏曲だけは例外ですが)。そのような理由で、インバルは私にとって「名前は良く知っているがその演奏には殆ど触れたことのない指揮者」でした。
 この日の実演で初めて接したインバルとベルリン交響楽団の演奏は、いろいろな意味で私にとって忘れ得ぬものとなりました。先ずベルリン交響楽団の音!大阪センチュリー交響楽団を「日本一」と褒めそやしてきた私ですが、本場ベルリンの超一流オーケストラは、矢張り全く格が違います。弦の音も管楽器のテクニックも、「これでこそ安心して音楽そのものが楽しめる」という質の高さでした。
 インバルは、極めて知性的な指揮者でした。前半のモーツァルト(バイオリン協奏曲第5番)では、編成を小さくしたオーケストラが決して伴奏に堕することなく、インバルの指揮の許、特に内声をしっかりと聞かせました。この曲をこれほど知的な興味を持って聞いたのは初めてでした。独奏の樫本大進は関西では特に人気の高い若手ですが、今まで聴いた中で最も音程の正確なバイオリニストです。これは嬉しい発見で、今後この奏者の室内楽など、意識して聞く機会を持ちたいと思います。
 演奏会の後半はマーラーの「巨人」。インバルは各楽器の配置に細かい配慮を行い、管楽器奏者達は、金管も木管も、マーラーが楽譜に細かく指示した音量制御のための楽器の持ち方の指示をいちいち守って音を出していました。楽譜を音に変換するという点では、「完璧」と言う他ない演奏でした。しかし、それにしても、インバルの指揮の許、こうして知的に正確に演奏されるマーラーの、何と内容空疎なことでしょう。同行した家内曰く「映画音楽風で、かつスラブ風。でもドヴォルザークのように流麗ではなく、メロディーの展開も乏しい。駄作ね。」
 この印象はアンコールを聞いて一層強まったのでした。インバル・ベルリン交響楽団は、何とアンコールにブラームスの交響曲第1番の終楽章を全曲(!)演奏したのです。これまで、同じザ・シンフォニーホールで何度も「名演奏」を耳にしてきたこの曲ですが、これほど技術的に完璧で、しかも深い感動を伴った演奏は経験したことがありませんでした。再び家内曰く「こっちを全楽章聞きたかったわ!」
 多くのオーケストラにとって、ブラームスの交響曲第1番は何度も弾き慣れた「手の内の曲」でしょう。飽きるほど弾いているかも知れません。しかも、マーラーのシンフォニーを全曲演奏した直後です。手を抜いて、適当にお茶を濁した演奏をされても可笑しくはありません。ところが、特に木管楽器の奏者達など、まるでアマチュアのように、全身全霊を込めて力強く音を出していました。オーケストラをここまで真剣にさせるインバルという指揮者に、私はすっかり感心し、同時にマーラーの作品の内容空疎さを、再度改めて認識したのでした。

 木管は人の心の動きを表す
  いずみホール10周年記念コンサート モーツァルト「魔笛」 (平成12年4月30日)

湯浅卓雄指揮 大阪センチュリー交響楽団 構成・台本:田辺秀樹
松下雅人(ザラストロ)、五郎部俊朗(タミーノ)、三原 剛(弁者)、田中希美(夜の女王)、釜洞祐子(パミーナ)、晴 雅彦(パパゲーノ)、石橋栄美(第一の少年) 他 (全員書けなくて御免なさい!)

 タイトルは昔読んだ吉田秀和さんの評論(「金管は心の動きの形をしている」)のパクリです。でも、モーツァルトの場合、木管楽器こそが人の心の動きを表していることは、彼のピアノ協奏曲やオペラが好きな人ならすぐに納得するはず。誰にでも明確にわかる例は、ピアノ協奏曲第24番の第2楽章におけるピアノと木管の対話ですね。そしてこの「魔笛」でも、実は歌詞よりも伴奏(?)の木管楽器の方が、それぞれの役の心の動きを物語の進行に先立って、或いは将来を暗示する形で表しているのは周知の通りです。
 この日の演奏会形式の「魔笛」、本当に素晴らしい演奏でした(台本と演出も最高だった!)。それぞれの歌い手が役柄にぴったりと嵌り、聞いていても見ていても(実演の「魔笛」では歌い手の見た目も大切です)、全く不自然さも違和感もありません。特に素晴らしかったのは、実は「三人の童子」!胸にリボンを付けた衣装と短いポニーテールも役柄にぴったりで、重唱の上手さはこれまで聞いてきたどの実演・ビデオ・LD/CDと較べても最高レベルでした。
 そして、大阪センチュリー交響楽団の演奏!何度聞いても、やっぱりこのオーケストラは大阪一、いや日本一だと思います。ミスの有無などと言うレベルを通り越した一人一人の奏者の音楽理解と表現力。特に今回は、金管に加えて難しいモーツァルトの木管が、本当に人の心の動きを悲しく美しく歌っていました。家内と二人で涙涙、大感激・大満足の一夜でした。

 小さな奇跡
  ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調 (平成13年3月24日)

小林研一郎指揮 大阪センチュリー交響楽団

 小林研一郎さんは私の大好きな指揮者です。彼の指揮の下では、例えば元々実力大阪一のセンチュリー交響楽団が、いつも以上に燃え立った、熱気に満ちた演奏をします。この日の「名曲コンサート」は、スメタナの「モルダウ」とメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト、それにベートーヴェンの「運命」という、まさに定番名曲のプログラムで、どちらかというと気楽に聴ける音楽会となる筈でした。ところがそこに、ちょっとした「奇跡」が起こったのです。
 午後2時からのコンサートは、休憩を挟んで後半のベートーヴェンに進んでいました。第2楽章が終わって聴衆が軽い咳払いを始めた丁度その時、ホールが大きな振幅でゆらゆらと揺れ始め、あの高い天井から吊された音響調整用の反射板が、お互いにぶつかりそうになるくらい左右に振られました。芸予地震の揺れが大阪まで伝わって来たのです。ホール内は一瞬騒然となり、誰もが身を縮めて息を飲みました。大きな揺れは1分近くも続いたでしょうか、次第に収まり、聴衆の間からは安堵のため息と軽い失笑が漏れ始めました。指揮台上の小林さんも、身体を正面に向けたまま二階席を見渡してにこりと笑顔を作られました。そして第3楽章を開始。一気呵成の名演奏で、聴衆から万雷の拍手を浴びました。
 朝比奈・大フィルによる「聖フローリアンの第7」で起こった小さな奇跡(第1楽章終了と同時に教会の鐘が響き渡った)は有名な話ですが、この日の演奏会も、もしも芸予地震が楽章の途中で起こっていたら台無しになっていたことでしょう。こんな「小さな奇跡」を起こせるのが大芸術家の資質だと思いますし、自分の経験に照らしても、人を感動させ動かす力(それをカリスマと呼ぶのでしょう)とは、詰まるところ、求められた場面で小さな奇跡を起こす力だと思います。

 宮澤が選んだ、ザ・シンフォニーホールコンサート ベスト8

1) マレイ・ペライア 指揮とピアノ セント・マーチン アカデミー室内管弦楽団
   モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 他(2002年5月10日)
 ダントツのベストワンです。ペライアのピアノの表現力については、いくら絶賛しても足りません。他の演奏会10回分が束になっても、この演奏会の充実度と満足感の深さを越えることは不可能です。
2) 大町陽一郎指揮 大阪センチュリー交響楽団・大阪シンフォニカー合同演奏
   ブルックナー:交響曲 第8番 ハ短調 (1999年5月28日)
 日本の演奏団体がこんなに完璧なブルックナーをやれるとは!娘曰く「お父さんの聞いている CD(クナッパーツブッシュやシューリヒト)と同じ音だったね!」。金管は殆どノーミステイク、ブルックナーの音楽そのものが心に滲み込んで来ました。終楽章の第三テーマ(「ブルックナーの逍遙」)のテンポもぴったり。一生の想い出に残る名演でした。

 追記:宮澤が「ブルックナー・ファン ホームページ」でこの演奏を絶賛したせいか(?)、その後この実演の録音がCDとして発売されました。CDで聞くと、終楽章の第3テーマは「ブルックナーの逍遙」と言うより、まるで「大宇宙がこちらに迫ってくる!」ような、途方もない迫力に聞こえます。

3) 金 聖響指揮 大阪センチュリー交響楽団
   ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調 「ロマンティック」 (2004年 4月17日)

 ドンナ・ドルソンさんのほぼ完璧なホルン、全身を大きく揺すって音楽に没入したセデルケニさん、終演後の奥田一夫先生の笑顔。宇宙の鳴動のような合奏の力と、木管の小鳥たちの儚い囀り。これでこそブルックナー、「センチュリー交響楽団万歳!」でした。

4) ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 モスクワ放送交響楽団
   ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 (1999年7月4日)

 圧倒的熱演!終演後もステージに残って楽器を手入れする楽員達に拍手が鳴りやまず、とうとうフェドセーエフが舞台に現れて、満場のスタンディングオベーションとなりました。彼は翌年もウィーン交響楽団とザ・シンフォニーホールにやって来ましたが、演奏はモスクワ放送交響楽団の時の方が良かったです。

5) 小林研一郎指揮 大阪センチュリー交響楽団
   サン・サーンス:交響曲第3番 ハ短調 (1999年3月27日)

 千住真理子さんとの共演による前半のチャイコフスキー(ヴァイオリンコンチェルト)も燃え立つような熱い演奏でしたが、後半のサン・サーンスが圧巻!会場からは「日本一!」の掛け声が!何とアンコールにサン・サーンスの終楽章コーダを全部やり直してくれました。小林さん自身「一期一会」と呼んだこの日の演奏を聴けた人は幸せ者。一生の想い出です。

6) エリアフ・インバル指揮 ベルリン交響楽団
   ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 終楽章 (2001年11月11日)

 前記の通り、モーツァルトのバイオリンコンチェルトとマーラーの「巨人」が取り上げられた演奏会のアンコール曲です。これほど完璧でしかも感動の深い演奏に、これまで何度接することがあっただろうかと思わずにはいられません。ベストワンに挙げても良いほど、強く記憶に残っています。

7) 朝比奈 隆指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
   ブラームス 交響曲第3番 ヘ長調 (1998年5月10日)

 ブラームスツィクルスの一環。ベートーヴェンツィクルスもブラームスツィクルスも、どの回も重厚な名演奏でしたが、最高だったのはこのブラームス。誰の演奏で聞いても尻切れとんぼに感じられる終楽章に至るまで、曲の意味するところが熱くしみじみと心に滲み込んで来ました。信州の森、モンタナの Big Hole Valleyの森が自然と心に浮かんでくる名演奏でした。

8) 朝比奈 隆指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
   ブルックナー 交響曲第7番 ホ長調 (1999年11月19日)

 朝比奈さんのブルックナーは、かの有名な「聖フローリアンの第7」と、NHK交響楽団を指揮した第8がベストと思っていました。三年前だったかフェスティバルホールで聞いた同じ「第7」は、ゆっくりとしたテンポで「聖フローリアン」と同じような運びでしたが、金管が遅いテンポについて行けなかったのかミスが目立ち、一寸残念な出来でした(ブルックナーの金管は断片的な音型が多く、演奏者は大変ですよね)。
 この日の朝比奈さんは全く違ったアプローチでした。テンポを速めに設定し、音楽に流麗な流れが創り出されていました。その分「第7」に満ちている「祈り」の気分が薄れて、下手をするとチャイコフスキー的な音楽に堕してしまいそうなところもありましたが、金管が殆どノーミステイクで、フルオーケストラでブルックナーを聞く醍醐味を満喫できました。
 圧巻は終楽章!
「第7」の終楽章が第8(或いは第5)のそれに較べて深みに欠けると言ったのは誰ですか?この夜の朝比奈さんの終楽章を聞けば、そこには第8の終楽章に劣らぬアルプスの花園、小鳥の囀り、木立を吹き抜ける風、そして大宇宙の鳴動が充ち満ちていました。
 終演後は例によって拍手が止まず、楽員の皆さんが全員引き揚げた後に朝比奈さんがステージに呼び出され、満場のスタンディングオベーションとなりました。しかし、今日のスタンディングオベーションくらい心からの感謝は今までに無かったと思います。朝比奈教の信者が出ても可笑しくないですね。

特別賞: 本名 徹次指揮 京都大学交響楽団
  ブルックナー交響曲第5番 変ロ長調 (2000年 1月13日)

 学生の演奏するブルックナー、それも「第5」と言うことで、開演前は実のところ期待よりも不安の方が大きい演奏会でした(何という認識不足!)。ところが、休憩前のF・シュレーカー(「あるドラマへの前奏曲」)で、オケの実力の高さにびっくりし、就中しっかりと「ブルックナーの音」が出ているのに感心して、一気に期待が高まりました。そして始まった「第5」は、遙かに期待を上回る最高の名演でした。
 技術的には不完全なところがあったのは事実で、演奏したオケのメンバーの方達には不満もあったようですが、聞いている方では細かいミスは一切気にならず、ブルックナーの音楽そのものが直接胸に響いてきました。特に、第2楽章以降はまさにブルックナーの秘密が全て目の前に解き明かされる思いで、「第5」が「第8」「第9」と並ぶブルックナーの最高傑作であることが何の疑問もなく理解出来ました。
 私の近くで聞いていた若い女性は第2楽章の途中から啜り泣きを始め、最後には殆ど嗚咽に近い物となっていました。勿論私も涙を流して聞きました。「第5」が大好きになり、これから何度も何度も繰り返して聞きたいと思いました。京大オケの皆さん、本当にありがとう!

娘・ Kanakoの選んだベスト1

ウィーン弦楽四重奏団
   ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 「ラズモフスキー第3番」
   (1996年11月30日)
 ドヴォルザークの「アメリカ」も最高でした。4人の奏者がお互いに目を見合わせ、心を通い合わせる様は、まさに弦楽四重奏の醍醐味!今までザ・シンフォニーホールで聞いたどの演奏と較べても、一番強く印象に残っています。
 ウィーン弦楽四重奏団は、この後3回来日しており、毎回ザ・シンフォニーホールに聞きに行きましたが、1996年の演奏に勝る会は一度もないのが残念です。

父娘の一致するワースト1

クラウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 大阪公演
 シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 (1998年10月15日)
 NHKで放送されたマレイ・ペライア(因みに、私たちはペライアの大ファンです!来日したら万難を排しても聴きに行きます!)とのモーツァルトで、これ以上あり得ないほどセンスと統率力の無さを露呈していたアバド。呆れたペライアが、コンサートマスターを睨み付けてテンポの指示を奪ってしまった第2楽章以降は最高でした。だから、チケットを買うとき一抹の不安はあったのですが...。それにしてもこの時のアバドとベルリンフィルは酷かった!各楽器の音はバラバラ、アバドの指揮に全く音楽への共感が無く、あの美しいシューマンのコンチェルトが何とも哀れで退屈な音楽になっていました。腹が立って、途中で立ち上がって退席しようかと思ったほどです。帰宅してから、口直しに大事にしている昔の「N響アワー」のテープを聴き直しました。アンティリーズ船長を持ち上げるダース・ヴェイダーのように、アバドの首根っこを締め上げてやりたかった!

クラシック関係 リンク集

大阪センチュリー交響楽団 (実力大阪一、いや日本一!)
大阪コレギウム・ムジクム
大阪センチュリー交響楽団の主席コントラバス奏者
奥田一夫さんの
超低音コントラバスの部屋
Classical MIDI Archives 世界最大のクラシック MIDI, MP3ファイル集
ブルックナー・ファン ホームページ (あなたはブルックナーが解りますか?)

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